ponohanaのブログ

『ただいま♪ わたし』ここにホッとくつろいで♡ ここからはじめよう🌱

「幼少期のストーリー」と今感じること

こんにちは

 

お日様の光がまぶしく

ぽかぽか暖かい♪

ほっとする、こんな瞬間が大好きです。

 

冬めいてきて、日々風が冷たくなっていると感じます。

 

ホットカフェラテを飲みながら

今日は懐かしく

幼少期のわたしのストーリーを思い出してみようと思います。

 

 

 

1番に浮かんだこと

お父さんのことが大好きで

「おとうさんのおよめさんになる🌸」と宣言していたことです。

やさしいお父さんが大好きでした。

肩車されて見ていた景色が思い浮かびます。

 

 

母に対しては、申し訳ない気持ちを持っていました。

わたしは自然の中にいることが好きで

鳥を追いかけたり、虫たちを観察したり、土手を散歩したり

お花畑の真ん中に座って、ふわふわと風に揺れる花を見たり

葉がさわさわと音を立てることに耳を傾けたり

太陽や風、草木の香りを感じ

自然のなかで包まれているような、一緒になっているような

そんな感覚が好きで自然が友達でした。

 

それは、母にとって心配の種だったようです。

ほかの子のように友達とワイワイ元気に遊ぶことを好まないわたしを

心配していました。それを感じ取っていたわたしは

母の望みにこたえようと、公園でみんなの中に交わろうと頑張るのですが

怖くて母の横にちょこんとくっついて離れることができませんでした。

少しだけ、周りの子たちの楽しそうな姿がうらやましくもあり

寂しさも感じていて、弟か妹が欲しいとお母さんにお願いをしていました。

母におなかの中に赤ちゃんがいると聞いたときから嬉しくてたまらなかった。

赤ちゃんに会える時を楽しみにしていました。

でも、妊娠中の母はつわりで寝込むことが多かったので、辛そうな母を見て

わたしが兄弟が欲しいといったからお母さんを苦しめてしまった。。

と感じていました。

幼稚園へ行くことを拒み、母のそばを離れず

母を手伝って楽にしてあげたくてお皿洗いをしていたことを覚えています。

後に母に聞いたことですが、

小さな私のお皿洗いは泡が残っていることがあり

私が見ていないすきにこっそり洗い直しをしていたそうです。

 

まもなく弟が生まれそうな時、赤ちゃんの服を買いに行く。と

張り切って、母の買い物についていきました。

退屈したわたしは、その場でぐるぐる回ることが面白くて

無中になって回っていました。

目が回り、周りの世界もよくわからなくなり

そのまま外に出てしまったようで、はっと気づいたときには

「ここはどこ?お母さんはどこ?」

お店から離れて知らない場所にいました。

大泣きしながらお母さんを探して

地下道を通ったり、めち上がったり、めちゃくちゃに歩いていました。

周りの大人に助けを求めることは思いつかないけど

大声をで泣くことと視線で訴えていました。

たくさんの大人と目が合ったのに

誰も助けてくれない。。

ちょっと冷静な感覚もあって

「なんで、なんで?」と大人たちに怒っていました。

彷徨い、地下道から地上へ上がった時

目の前にあった公衆電話で泣きながら電話をしている母がいました。

抱きしめられたとき、怖さがあふれ出しました。

 

弟が生まれると

かわいくてかわいくて、ずっと一緒にいたくてくっついていましたが

みんなの注目が弟に注がれていると感じて

自分が大切にされていないように感じることがあり

拗ねていたことを思い出します。

 

 

わたしにとって、幼稚園に行くことは地獄でした。

友達や先生と楽しく過ごした記憶がありません。

お迎えの来るスクールバスに乗るときは

いつも大泣き。

母にしがみついて離れない

先生が母と私を引き離します。

パンツ丸見え、おなか丸見えになるほどの大抵抗の末

先生に抱きかかえられてバスに乗せられて出発

これがいつもの幼稚園生活の始まりでした

幼稚園に行くバスの中から見える景色はモノクロ 

パンツ丸出しで大泣きしていたことが恥ずかしくなって

周りの視線も気になる。。

幼稚園に行ってもたのしくない。。

チーーーン😿という感じ

わたしにとって孤独な時間の始まり。。でした。

でも、幼稚園の中で

大好きだったことがありました。

自由時間にブランコやトランポリンで遊ぶことです。

ふわっと浮かんで空に近づく感じ、ふわっと世界が広がる感じが好きでした。

目線が上がって、いつもと違う景色が見れるのも好きでした。

自由な時間が終わってクラスへ入ると

おトイレに行きたくてもひとりで行けない。

先生に言うのも恥ずかしい。。

お漏らしをすることもありました。

 

 

牧場に遠足に行った時のこと

馬に乗って広場を一周するため順番待ちの列に並んで

次はわたし♪と楽しみにしていた時

前の番の誰かのお母さんが

馬に蹴られて飛んでいくところを目の前で見ました。

倒れたまま動かない。。

周りが凍り付き、救急車が来て大勢の大人がワタワタしている。

それを見ていたわたしは硬直して、目の前の出来事がただ視界に入っているような

ただ流れているそれらを見ていました。

楽しさが一変した出来事でした。

 

四人乗りの対面型の鉄のブランコに男の子と対面して乗っていた時

その子が「動くブランコから飛び降りれるよ。」

そんな風なことを言って飛び降りました。

ブランコ横に着地すると思っていたはずの男の子が目の前から消え

ブランコの下に巻き込まれてブランコが止まりました。

女の先生の悲鳴が聞こえ、男の先生が血を流してぐったりしているその子を

ブランコの下から救出しました。

救急車がサイレンを響かせて幼稚園から出ていきました。

あっという間の出来事でした。

その時も、牧場での出来事の時と同じように硬直していました。

先生の悲鳴以降は無音で、その後のことは記憶には残っていません。

 

 

幼少期の私は、時々他のみんなには見えないものを見たり

気配を感じることがありました。

怖くて、周りの大人に訴えるのですが

「何もいない、気のせいだ」

「何がみえるの?何もいないよ」と言うだけでした。

確かに見えているのに。。

何がほんとうで、何がほんとうじゃないのかわからない。

わけがわからないけど

みんなとは何か違うものを見たり感じたりしているみたい

何かが違うらしい。という感覚を持っていました。

それをどうしていいかわからないし、なんだかわからない

わかってもらえない。

大人たちの対応を、わたしのことをおかしな子だと思っているんだ。

と感じるようになり、どうにもわからないことに、どうしようもなく

わたしはおかしな子なんだ。と思うようになり、そのことについて誰にも話さなくなりました。

 

 

 

 

こうして、記憶を書いてみて

子供のわたしの世界の狭さや誤解

コミュニケーションを知らなくて

自分自身の状態の認識もできない中

ほんとうに一生懸命に生きていたんだと感じます。

 

 

怖かったり、泣きたかったり、逃げたかったり、怒りたかったり、自分を責めたり

駄々をこねたかったり、寄り添ってほしかったり、助けてほしかったり、不安だったり

話を聞いてほしかったり、好きだけど嫌いって思ったり葛藤もあったりと

いろんなことを感じていたし

感じることができないくらい衝撃をを受けていたり

いろいろ。。

 

 

小さくてかわいくい、繊細でやさしくて

けなげで、頑張り屋で、純粋で、素直で、無邪気で創造力いっぱいな

わたしの一部をいとおしく感じて

ほわっとあたたかくハートが広がって包み込む

穏やかさと強さを持ってここにいられる平和を感じます。

 

 

大人になって気づいた

生きてくる中で安全だと思ってしていたことが

幻想だった、自分を苦しめるものになっていたということ。

そして、手放してきた思い込みたち

「思い切り楽しむことはできない」とか

「楽しみは長くは続かない」とか

「楽しみの先には大変なことが起こる」とか

「自由に好きなことなんてできない」

「自分はおかしい」などなど、たくさん。。

そんな思い込みたちは

小さいながら一生懸命に生きていた体験や経験から

自分なりの身を守るために必要だったものだけど

日々、同じように対応をすることが安全だって信じて

繰り返し体験することで幻想の世界を強化していく

幻想だっていうことに気づけなくなっていく。

それがほんとうのこと。みたいに

自分の当たり前の常識、自分自身になっていく。

 

その当たり前は

自分にとって安全に感じるけど

自分を苦しめる種になっている。

 

現実をゆがめて捉えていたり

周りの優しさや愛も気づけなくなっていたり

受け取れなくなってしまったりもする

 

だけど、ほんとうはそれは違うと

どこかで自分自身が感じているから

知っているから

苦しさを感じる。悩みになる。

 

今、自分自身に気づいていくこと

自分を知ることが幸せへの鍵。

そこから新しい世界を体験していける。

 

それは自分自身にしかできないことで

自分を知ることは

自分に優しく寄り添う。

自分に素直になっていくことだと感じます。

 

過去のストーリーや

記憶は、問題を解決するために思い出そうとしなくても

掘り起こそうとしなくてもいい。

ただ、わたしらしいストーリーの一部。

「ここだよ」ってホントの私に気づかせてくれるもの。

「ただいま。わたしでよかった。ありがとう。」って私を思い出させてくれるもの。

あたたかさや愛を感じるもの。

全部私の一部だから、今ここに気づいいていたらいい。

時間はかかっても、難しいと感じても大丈夫。

だって、わたしはわたしだから。そう思える。

それって、自分にとっていちばんやさしいよね。って思います。

 

目に見えない存在たちに興味を持ったのはここから始まっていたのか。

と過去のストーリーを思い出して気づきました。

学んできたこととか、今やっていることにも繋がっています。

知りたかったんですよね。ずっと。

それから、自然が好きなことも変わらず好き。

イメージの中、たのしくなったところで

幼少期のストーリーを終わりにします。

ちょっと?ニッチな話

こんにちは♪

 

ニッチって言葉はいつからあるのか。。

つい最近「ニッチ」という言葉を知り

使ってみたかったのでした。

 

本日初「ニッチ」

大人になって言葉をつかうことにワクワクするって♪

うれしくて

顔がにやけています(*´▽`*)

 

 

ちょっと自分の棚卸をしていて

これまでの自分自身の軌跡というものを

記してきたxmindをみていたのですが

「おい、マニアックすぎるでしょ。。」と

突っ込みどころ満載で。。

ニッチ。って言葉より

使い慣れた「マニアック」のほうがしっくりくる(ノ´∀`*) 

 

 

今、生かしてくれている自分の肉体の事だって

よく知らないのに

 

目に見えない世界

いわゆるスピリチュアルな世界について

様々なレベルで理解すべく自己探求、成長を目指していたさまを

改めて実感したのでした。

何者になろうとしていたのだろう。。

 

 

生きづらかった日々、そこから脱したくて始めた様々な学び

自分を知る必要性を感じて学び始めた心や脳の働きや

スピリチュアルな存在でもあるということや

宇宙の仕組み

ヒーリングや浄化など繊細なエネルギー体に働きかけるものや

関係性のなかでお互いに起こっているエネルギーレベルでのやりとり

感情、思考など、他さまざまなレベルについてなど、、

知る由もないことを。。

今世、人として存在するうちに全部知ることなんて無理でしょ?

ということたち。

それを理解できるようになるとでも思っていたようです。

そしてコントロールできると。。

 

 

学んだきっかけは

悩み、苦しいばかりの人生ではなく

幸せで平穏な日々を送りたい。という願いからだったのに。

いつしか目的がずれて

探究者、いや追求者になっていたという感じ。

覚醒者にでもなろうとしていたであろう

いろんななことが記されていて

 

 

そんな過去の自分に

突っ込まずにはいられないのでした。

もう、神経症じゃん。

そりゃ、修行だ。苦しいって感じるよね

今の楽しみがない気がする。。

とか言ってたことに納得するよ。

よくがんばったわ

と当時を振り返っていました。

 

 

 

修行のように過ごした時期を得て

「今ここしかないんだ。いつだってわたしはわたしだし。

それ以外だったことなんてなかったし、これからもそうなんだ。」

「なんだこれだったのか。。」

「ただいま。」って

降参するように

いつだって一緒だった「ここのわたし」に帰ってきたからこそ

笑いながら突っ込める喜びと安堵を感じました。

長い期間をかけて、ぐるりと一周回ってかえってきた。

そんな感じ。



 

ちょっと、じゃなくてかなり「ニッチなのでは?」

修行時期を振り返ると、なんか特別なことをしている感があって

成長している感満載で

やばかったなと思います。

 

 

ここにくつろぐ、それだけでよかったのに

そのシンプルさゆえに見落としてしまっていた

そんな感じです。

「今ここ」「ほんとうのわたし」って今ここのすべて

ただそれだけ。

灯台下暗しすぎて今ここの「これ」に気づけなかった。

勝手に事を難しくしていただけ

違う場所へ何かを探しに行ってた。

 

 

当たり前のことではなく、何かがあるという勘違い

まあ、それもまた楽しみ方でもあるんだな。

と思いつつ、

もう、あの修行チックな感じは

やれといわれてもできないし、あの楽しみ方はもういい。

やりたくないな。と思うのでした。

とことん、気のすむまで真剣に取り組んできたからこそ

今があるのだとも思いますが。

手放すことが怖くて苦しみの中修行を続けていた期間もあり

それはもう、気が狂いそうになっていました(;'∀')

 

 

自己探求や成長にかぎらず

何か目標に向かって行動していくとき

初めに思い描いたことから

ズレていってしまうってあると思います。

周りに権威者を置いていたり

コミュニティに属していたり

それが当たり前化してくると

やめることに怖さが出たりすると思います。

 

もし、今何か取り組んでいるものがあって

重さや苦しさを感じていたら

 

立ち止まって、深呼吸をして

ほっとここにくつろぐ

自分に素直な声に耳を傾けてみる。

 

どんな声が聞こえてくるか

どんな感情なのか

体の感覚は重いのか、軽いのか

 

もし、これまでと違う選択やアイデアがでてきて

そこに抵抗があったら

新しい世界へ一歩踏み出す時かもしれない。

自分の中心の感覚を信じて、頑張って勇気を出して

慣れ親しんだものを手放す時かもしれない。

 

いつだって自分の感情と感覚が指針。

 

誰が何を言っても

世界の常識がなんであっても

「わたし」の感情、感覚を指針にすることが

スムーズ

挑戦していくことに楽しさを感じる

何をしていても生きている喜びを感じる。

 

 

これ

手放せない葛藤でくるしんでいた過去のわたしに伝えることができたら

わたしはどうしたかな。。

 

いや~

やっぱり

苦しんで、とことんやって

「もういい!これもう違う!やめる」ってならないと

手放そうと決断できなかっただろうな。。と思うのでした。

いつだって最善をつくしているんだから。

 

 

それぞれの

楽しみ方

進み方

やり方だし

あーだこーだいっても、結局

どれもその時の「わたし」にぴったりなんだと思います。

ただ何をするにしても

考えている、感じている自分自身に気づいていて

そこで自分自身で決めているかということが大切だって思います。

 

エネルギーの交流

こんにちは♪

 

今日は雨

庭の草木が生き生きしています。

 

今年は金柑の木が大きな実をたくさんつけたので

収穫が楽しみです。

 

先日庭を散歩していた時

1羽の小鳥がぶるるる。って感じで

力強く嬉しそうに低飛行をしていました。

 

いつもはかわいらしい♪

 

今日ななんだかっこいいぞ♪

かっこいいね。もう1回飛んで見せて

心の中で小鳥に話しかけていました。

 

もう1羽やってきて、一緒に飛び回っていて

たのしそうだな。

と眺めていた時

 

ふと

「あ!金柑を食べに来てたのか!」と思いました。

その瞬間

「うひょー」私にはそう聞こえましたが。。

「見つかった。逃げろー」そんな感じで

小鳥たちはどこかへ飛んでいきました。

 

 

たのしそうだな♪

と眺めていた

ゆるみモードから一変

 

「あ、金柑!」と思った瞬間

鳥たちに対して

「あなたたちー!」と泥棒扱い

金柑を採るか、採られるか。

という敵モードを発動していたのでした。

そのエネルギーを感じ取って飛び去ったな。。

と思いました。

 

 

楽しみにしていた金柑。

 

これまで、もう少ししたら収穫しよう♪

と楽しみにしている時、何者かに食べられて

収穫できなかった。。その経験していたので

金柑泥棒め。という

敵対モードを発動していたのですが

争奪戦はいやだ。。

「よし。今年は鳥や虫たちと一緒に食べよう。」

と思いました。

 

 

気が付いたら、何者かに食べられていて収穫できないという状況は変わらなくても

「シェアしよう。」と決めたら

採った、採られた。って一喜一憂しなくなる。

「どうぞ。お食べ、私も食べるから。」

と思えたら、なんだかホっとして

 

 

鳥たちの訪問もまた、楽しみになりました。

自分の都合だけで世界を見る

人が一番すごい。と思っているんだな。とも感じました。

自分のモードで世界は変わる。

優しい世界を体験しよう。と思った

鳥たちとのエネルギーの交流でした。

 

三位一体のパワフルさ♪

こんにちは♪

NIKAです。

ここにお越しいただいてありがとうございます。

 

今日は

三位一体のパワフルさ

楽しさ

明晰さ

生きている充実感、喜びを感じたことから

気づいたことを書いてみます。

 

 

夢や目標があって

思い描くことはできても

考えすぎてしまって

怖かったり

遠い夢のように感じて夢だと妄想世界の楽しみで終えたり

 

自分なりに行動へ繋げようと頑張っても

どうもうまくいかない。

続けられない。。

やらなきゃいけないのに、できないと自分を責めてしまったり

人と比べて苦しくなったりすることってありませんか❓

 

 

逆に

急にスイッチが入って

周りのことはどうでもいい。

そんなことよりこれをやるんだ。

という

時間も忘れて何かに没頭する

無我夢中モードってありますよね。

 

 

先日

急にスイッチが入りまして🌱

 

過去の体験に

奇跡体験の時期

と呼んでいるものがあるのですが

その頃は、思いついたら即行動して

望みを叶えていく

スムーズな流れに乗っていると感じるし

そこで受け取るものが考えも及ばないものだったので

奇跡という言葉になるのですが

 

 

それは奇跡でもなく

起こるということはわかっている

そんな世界があるということも体験している

でも

 

自発的に起こそうと思うと難しくなる。。

なぜだろう、あれが本来の感覚なのに。。

なんて思っていたんです。

様々な学びを通して

原理原則はわかっても

意図的につかいこなせないと感じて

モヤっとしていました。

 

原因は考えすぎ

知識ありきで起こそうとしていたからです。

 

 

先日、スイッチが入り無敵モードを感じた時

心と思考と行動が

完全に一致した時にそうなる。

ということを感じていました。

 

そして

椅子は足が3本になった時に

椅子としての機能を果たす。ということを

ふと思い出し

まさにそれだと思ったんです。

椅子は

1本の脚では立つこともできない

2本の脚でもバランスを取って自立することも難しく

人を支えることは無理

3本の脚をバランスよく配置することによって

初めて、椅子として成り立つのと同じで

 

わたしたちの

心、感情

思考

行動

この3つが一致して

スイッチが入って

足並みそろえた時

 

 

いつもなら

めんどくさかったり

後回しにしたくなったり

やらなくてもいいかな

って諦めたりすること

頑張っても行動へと向かないことも

 

 

自分の望むものへと

向かっていけるのだと思います。

というか動いちゃう。

動かずにいられなくなる

 

 

そんな時は

インスピレーションも沸き

思考も明晰になり

ゆく先々でサポートがあることを感じられる

感謝が湧いてくる

導かれるような

スムーズな流れに乗っていることがわかり

軽やかさと楽しさを味わいながら

目の前のことに集中している。対処している

そんな感じです。

 

そして

流れに乗るきっかけは

いつでもあるし

創られているいるということ

いろんなことが動線となって

今ここに起こっている

その流れがいつでもある

ということを感じました。

 

スイッチが入るきっかけ

流れに乗って行くタイミング

そのために引かれている動線

どのタイミングで気づくのか

そもそも

気づかないのか。。

気づくには

 

いつでも

今、自分が

何を感じ

何を考え

どんな在り方でいるのか。モードなのか

ということがわかっていれば

いつでもスイッチを入れて動き出せます。

 

どんな世界を体験しているのか

どんな自分でありたいか

どんな現実を体験するかは

いつだって自分が決めた通りになっている

だから

もし、変えたければ

いつでも変えることができるし

そのままいることもできる

 

今、どんなモードかな❓

何を感じて

何を考えて

どんな世界を体験しているか

それは望むものかどうか

自分の声に優しく耳を傾けることからはじまります

パワフルさや明快さは

いつだって自分の内側にある。

それを忘れちゃうのは勿体無い。

内側に意識を向けることを

思い出すことが大切。

 

いっぱい学んで

知識が邪魔をする。。

そんな感覚をがありましたが

体験を通して、知識が力になることを感じて

身を結ぶ。という言葉がピッタリだな。

なんて思いました。

 

力を抜いて

自分の内側に耳を傾けてみること

それでいいんだな。という感じ

 

子供の頃

時間も忘れて夢中になって遊んだ時の感覚を思い出してみてください。

 

誰よりも拒んでいたのに、誰よりも染まっていたこと

こんにちは

NIKAです♪

ここにお越しいただいてありがとうございます。

 

今日もポカポカ日差しが暖かな秋晴れ。

こんな陽気が好きです

 

あたたかいな〜と

ぼ〜〜っと空を眺めていて

ふと思い出したことがありました。

 

子供の頃、引っ越しが多かったのですが

幼稚園の時

遠州地方に越した時のことです。

方言を初めて聞いた時の衝撃がありました。

 

みんなが語尾になんか訳のわからない言葉をつけている。。

イントネーションも違ってなんか変。

家に帰って母に

『先生が変なこと言ってるしおかしい。わたしは変な言葉使わないもん‼️』

そんな報告したのを覚えています。

 

それから2度の引越しをしましたが

遠州地方内

ということで

すっかり遠州訛りの玄人になっていたようです。

 

 

自分では気づいていなかったのですが

他地方の、わたしから見ても方言訛りが強い友人の友人に初めてお会いした時

遠州人ということを一発で見破られました。

ほぼ標準語で話していると思っていたわたしは。

『え、なんでわかるの❓』ってなってました。

『少し話してればわかるよ、そのイントネーションとか』と言われ

うっそ。。と

 

まるで自分のことを標準語を使う東京人だと思っていたかのような自分の驚きに

えっ❗️❓っと驚いたのでした。

 

 

家族いわく

家の中でわたしは

一番方言訛りが強いらしいのです(自覚なし😅)

 

もう、ほんものです♪

数年前、ドラマで俳優さんが遠州の人を演じていたのですが

ちょっと違うんだよな〜と微妙な違いを感じてしまうほど

ほんものです。

 

朱に交わればなんとやら。。です。

なんかこれって、ほんといろんなとこで起こってるなと思って。

 

自分の体験の一つが重なりました

『必要なのはこれだ』

って飛び込んだコミュニティや学びの世界の中に染まっていったこと

いつしかそこから抜けることができなくなったことを思い出しました。

 

遠州弁は好き♡

なので

そのままでいますが

 

コミュニティに属していた頃

慣れ親しんだ場所や

手に入れた立ち位置

スキルなどなど、により

今は違うな。と感じていながら

離れることが怖くなっていました。

そして、理由をつけてそこにい続けました。

もし

なんか違うなという葛藤があったりしたら

もうそこで十分に学んだってことかもしれない

それらを自分なりに実践して腹おちさせて自身のものにしながら

進んでいくときかもしれません。

誰かをてっぺんに置いて

自分ではない理想、幻想を追いかけているかもしれません。

 

何が良いとか悪い

ということではなくて

自分が何を採用し、不採用にするのか

決めるというところに

立っていることが大切だっていうこと

 

わたしは

遠州弁は好き♡

なので

そのままでいます

時には、標準語を話す人を演じてみるかもしれません♪

すずめの飛行をみて感じたこと

こんにちは

NIKAです♪

ここにお越しいただいてありがとうございます。

 

小鳥の鳴き声を聞きながら

窓から入ってくる優しい日差しのぽかぽかの温かさと

さわやかな秋の風を感じながらこれを書いています。

ここちよい秋晴れです。

 

 

わたしは

車でほんのちょっと走ると

田園風景が広がる自然に囲まれたところに住んでいます。

その風景が大好きで、車を止めては窓を開けて

風になびく稲穂のさわさわと鳴る音を聞いたり

鳥を眺めては幸せを感じます。

自然いっぱいのこの場所が大好きです。

 

数ヶ月前の大好きな田園風景♪

 

 

先日、その田んぼ道を車で走っていると

車を先導してくれるかのように目の前を飛ぶすずめがいました🐤

 

開いた羽を力強くグッと閉じ

その力で上昇しながら前進し

スーッと流れに乗ってさらに進む

そして

少し下降してくると

また羽を開いてグッとじてすすむ。

 

その繰り返しの『飛ぶ』という一連の動き

スムーズな動きが

わたしには遊んでいるようにも見えて

かわいらしくもあり、力強さも感じました。

 

 

動く

止まる

自分の起こした流れに任せる

 

練習をして飛べるようになったんだな。

すごいな~と眺めていて

ふと

ずっと力んでいている。でも

ずっと止まっている。でも

ずっと流れに任せている。でもなく

全てが1つでこの流れ

止まるという動きも含んだ

これが動きなんだなと思いました。

 

内観オタクのわたしは

自分の中の動きと同じだな。

なんかうまくいかない時は、この流れがうまくいかない何か

があるよね。と思いました。

 

 

わたしたちは

日常で当たり前の習慣になっている事

例えば歯磨きなど

何をしているか意識しなくてもできる事は無意識に

自動的にしていますが。

はじめてのこと、とか慣れないことは

習慣になるまでは意識してやることが必要ですよね。

逆に意識しすぎて力が入っちゃって難しくすることもあります。

そんなこんなで練習し、繰り返しを得て当たり前にできるようになっていきます。

 

 

自転車に乗る練習を始める時から

乗れるようになるまでの過程

乗れるようになった時の事を思い浮かべると分かりやすいと思います。

自転車に乗った事がない方は

他の事に当てはめてイメージされてみてください。

 

 

自転車も、乗り方の説明を頭で分かっただけでは乗れるようにならないのと同じで

なんどもトライしてみて、コツを掴みながら感覚を掴んでいきますよね。

いつしか

座る

ハンドルを握る

足をふみこんでグッと一歩すすむ

バランスをとりながら走る

1つ1つに意識を向けなくても自動運転のように当たり前に乗りこなし

舵を取って、行きたいところへ行く事ができるようになりますよね。

そうなってしまえば

乗る前に

『乗れるかな、、大丈夫かな、、』なんて不安にならないし

自動運転のように、当たり前に乗りこなしますよね。

 

これとおなじように

わたしたちの日常もほぼ自動運転が創り出した体験なんです。

 

『自動運転の素』

となっているのは

育った環境や周りの大人たちの世界観

学校で教えられた事や

社会常識などなど

 

自分自身がこれまで生きてくる中での体験により

信じてきた事

『それぞれの世界観』です。

 

 

それは

疑いもしない当たり前の世界。

『それぞれの世界観』をベースにした

感情

考えから現実はつくられている認識の世界です

『わたしはこういう人』とか

『世界はこういうところ』とか

『あの人はこういう人』とか

『それぞれの世界観』をもとに

その世界観を脅かさない範囲で

同じような日々という現実を創り出しています。

たとえ、自分が望むものではない何かがあったとしても

自分自身が体験することは自分が選んでいます。

 

それ

どうゆうこと❓

ってなりますよね。

 

日常の自分自身の感情

頭の中に流れる声に意識的になってみると

 

自動運転ってこういうことかな?

と感じられる何かを受け取られると思います。

それまで気づかなかった自分発見の第一歩です。

 

わたし、どんなモード?

って自分に聞いてみたら。

今、どんな感じがしますか? 

 

 

 

 

おじいさんの心からの言葉

こんにちは

NIKAです♪

ここにお越しいただいてありがとうございます。

 

 

わたしの日常の御用達のお店は

近所のイオンです。

 

ルフレジが導入されてだいぶ経ちますが

以前、セルフレジの使い方が分からず

焦っているおじいさんがいました。

お店が混んでいて、係員さんは他のお客さんの対応に追われて

おじいさんが困っている事に気づいていませんでした。

 

会計が終わった帰りがけにおじいさんの横を通り

何を困っているのかな❓と思い伺うと

何も分からないご様子。

 

『こうするんですよ。』

と、お伝えしながらバーコードの読み取りをお手伝いしていたら

『やさしい〜』と言うおじいさん。

その心からの声に、ほわっとなりました。

なんて素直に表現されるんだろう。

と思いました。

お役に立ててよかった。

会計を終えるまでの少しの時間をご一緒した

はじめましてのおじいさん。

 

その時のことを、ふと思い出したら

心がほっとあたたかくなって、自然と顔もほころぶ

幸せなストーリーのひとつです